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  • Miles Davis没後30周忌特別コラム:マイルスが私たちに残したもの

    ジャズの歴史を語るうえで避けては通れない人物、それがトランペット奏者マイルス・デイヴィス。

    チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーと並んで、マイルスは言わずと知れた伝説的アーティストのひとり。彼が音楽史に残した功績は偉大です。

    しかし、そんな彼もひとりの人間。大きな成功の裏には数え切れないほどの苦悩もあったでしょうし、果てしないほど努力を重ねたはず。熱く煮えたぎるジャズへの情熱はそのトランペットから溢れ出ています。

    ジャズを愛する私たちはマイルスの名作をこれまでどれだけ聴いてきたでしょうか。しかし、そんな彼がこの世を去って30年が経つ今、改めて彼の素晴らしさを再確認してみようとFace Recordsは考えます。

     


    来たる2021年9月28日はジャズの帝王マイルス・デイヴィスが亡くなってから30年が経った日です。

    そこで、ジャズを扱う店舗として、ジャズが好きな者として70枚程と少量ではありますがマイルスのみで特集セールを行います!

    大名盤の “KIND OF BLUE” やCOOL JAZZを代表する名盤 “BIRTH OF COOL”、さらにロックファンからも愛されるエレクトリック期の名盤も多数!

    マイルスを聴けばジャズの歴史がわかると言われているだけにまさに”帝王”。今一度マイルスを聴いてみてはいかがでしょうか。

    お楽しみに!

    放出ラインナップはこちらから!


     

    憧れとの出会い

    1926年5月26日、マイルス・デイヴィスは米国イリノイ州オールトンで誕生。出生名はマイルス・デューイ・デイヴィス3世。父デイヴィス2世は歯科医、母クレオタは音楽教師という裕福な家庭で、3人兄弟(姉ドロシー、弟ヴァーノン)の長男として育てられました。

    10歳の頃、マイルスはもらったトランペットを吹くように。音楽の楽しみを知った彼は、13歳の誕生日に父から新しいトランペットを与えられたこともあり、中学校ではスクールバンドに所属し担当教師から演奏方法を本格的に学んだそう。

    1944年7月、彼が18歳の時にとある出来事が。アート・ブレイキー、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーを擁するビリー・エクスタインのバンドがセントルイスでギグをした時のこと。体調を崩したトランペッターの代役としてなんとマイルスに白羽の矢が。2週間バンドと共演して、ニューヨークへ移り住むことを心に決めたそうです。しかし、母クレオタの本心はマイルスには姉ドロシーと同じ大学へ通いピアノとヴァイオリンを学んで欲しかったようです。

    同年9月にはジュリアード音楽院へ入学するためニューヨークへと引越し。昼間に授業を受け、夜になると毎日のように52丁目へ繰り出すように。そこはミントンズ・プレイハウス等、当時多くのジャズクラブが集まり大物ジャズマンがよく出入りしていた場所です。

    毎晩足繁く通う理由。それはかつて共演した2人の彼のアイドル、バード(チャーリー・パーカー)とディズ(ディジー・ガレスピー)と再会するため。「コールマン・ホーキンスには『せめてジュリアードを卒業するまではバードのことは忘れておけ』と言われた」とマイルスは後に語っています。

    ある日、「パーカーが出演」と載ったとあるクラブの新聞広告を発見。念願だった再会を遂に果たす時が来たのです。はるばる来たニューヨークの地で長い間探し続けた末のこと、さぞかし嬉しかったことでしょう。それからというもの、彼はハーレムにあるミントンズとモンローズ・アップタウンハウスで行なわれるジャムセッションの常連に。当時、マイルスが毎夜の如くステージ上で共に切磋琢磨しあったプレーヤーには、J.J.ジョンソンやケニー・クラーク、セロニアス・モンク、ファッツ・ナヴァロ、フレディ・ウェブスターらが。彼にとって、一瞬一瞬がまさに自分を磨き上げる場だったのです。

    そんなマイルスはパーカーと再会してからルームメイトとなり同じ部屋で共に生活したそうです。

     

    飛躍

    マイルスに転機が訪れます。

    1945年4月、19歳だった彼はハービー・フィールズのバンドの録音に参加。初めてのレコーディング経験となりました。しかし、緊張して上手く吹けず、良い思い出にはならなかったそう。

    そして別のチャンスも訪れます。パーカーはサックスを吹けば神々しく天才的な演奏を披露しましたが、その裏で当時クスリ漬けでステージ外では素行が悪かったことでも有名。ガレスピーはそんなパーカーに嫌気がさし、ジャズ史上最高のコンビネーションでもあったクインテットをついに離脱。トランペット奏者だった彼の後釜を任されたのが、そう、マイルスだったのです。秋になるとフルタイムでのバンド活動に専念するため、在籍していたジュリアード音楽院を退学しました。

    翌1946年、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、アート・ブレイキーら後の大スターを抱えた歌手ビリー・エクスタインのビッグバンドに加入。

    1949年には西海岸ロサンゼルスのレーベル、キャピトルと契約。ジェリー・マリガン、リー・コニッツ、J.J.ジョンソン、カイ・ウィンディング、ケニー・クラーク、マックス・ローチら9人編成バンドで計3回に渡ってレコーディング。同セッションから11曲が集められ、1957年にリリースされた作品が『クールの誕生(原題:Birth Of The Cool)』です。(10インチレコードの発表は1954年)


    Miles Davis / Birth Of The Cool(Capitol, 1957年発表)

     

    1949年5月にはパリ・ジャズ・フェスティバルでタッド・ダメロンと共演する為にフランスへ。マイルスにとって初めてとなる海外への旅では、アメリカの黒人ミュージシャンが本国よりも遥かに尊敬されているのを知る機会になり、彼の中で物事に対する見方がガラリと変わったそうです。そして歌手であり女優でもあるフランス人女性、ジュリエット・グレコと恋に落ちたのもこの時でした。

    現地で2週間滞在し、スターとしての待遇を受け、聴衆から熱い歓声をあげられ、ひとりの素敵な女性と恋をしながらも、寂しさを胸いっぱいにアメリカ行きの飛行機で帰国。帰るという選択肢を選ばざるを得なかったことがかなりショックだったそうです。その悲しみは、自分を癒すためヘロインに手を出してしまったほど。

    1955年、米国ロードアイランド州において、第2回目となるニューポート・ジャズ・フェスティバルが開催されました。カウント・ベイシー、ルイ・アームストロング、デイブ・ブルーベック、セロニアス・モンクら錚々たるメンバーと共にマイルスも参加。

    ステージ上でトランペットを吹くマイルスに特別な眼差しを向けるひとりの人物が客席に。米大手コロムビアのレコード・プロデューサー、ジョージ・アバキャンがその人。マイルスに同社との専属アーティスト契約を持ちかけるため演奏に聴き入っていたのです。さすが大レーベル、提示した契約条件も良いものだったとか。しかし、当時マイルスにはプレスティッジとの間に交わした契約がまだ1年も残っていました。

    マイルスにとってはコロムビアと契約しない理由など考えられません。彼は契約書にサインし、同社から前渡金として4,000ドル(現在の貨幣価値では約423万円)を受け取りました。プレスティッジとの契約が満了となるまでコロムビアから作品は一切出さないという契約事項付きです。

    1955年10月26日、ニューヨークのコロムビアのスタジオにはマイルスの姿が。同レーベルから初の作品となる『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を吹き込むためです。そして、両社との約束通り、プレスティッジとの契約が終わるまでリリースは待つことに。


    Miles Davis / ‘Round About Midnight(Columbia, 発表は1957年)

     

    コロムビアへの録音と並行して、マイルスはプレスティッジへの吹き込みも忙しく重ねてゆきます。契約を終えるためです。

    11月16日、ジョン・コルトレーン(ts)、レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、そしてフィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)と作品『マイルス』をレコーディング。このメンツは”ファースト・グレイト・クインテット(the first great quintet)”とも言われます。

    続いて1956年3月にはソニー・ロリンズ(ts)、トミー・フラナガン(p)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)というメンツで録音。1953年にチャーリー・パーカーらと吹き込んだ音源と合わせひとつのアルバム『コレクターズ・アイテムズ』として発表されました。

    そして圧巻は1956年5月11日と10月26日の2日間。両日ともに3時間以上にも及ぶ録音だったそう。たった2日間でプレスティッジとの契約を終えるレコーディングを成し遂げたのです。

    『クッキン』、『リラクシン』、『スティーミン』、『ワーキン』という4作品を生み出したこのセッションは俗に”マラソン・セッション”と呼ばれ、アルバムに収録された楽曲はどれもファーストテイクだったと言われています。

    怒涛の録音ラッシュを終え、プレスティッジとの契約は無事全て終了。マイルスは自身のキャリアにおける新たなステップを満を持して歩み出します。

    1956年5月、マイルスの音楽に海風のような新しい風が吹きます。計5枚もの作品で共に制作することになる名編曲家ギル・エヴァンスとのコラボレーションです。『クールの誕生』で一緒に仕事をして以来、マイルスの頭の中にはクリエイティブな彼と音楽を制作するアイデアが生まれたとのこと。

    そのアイデアが具現化した作品、それが『マイルス・アヘッド』です。


    Miles Davis / Miles Ahead(Columbia, 1957年発表)

     

    『クールの誕生』に続くギル・エヴァンスとのコラボとなった本作。マイルスは終始フリューゲルホルンを演奏しています。

    レコードが発売された当初、アートワークは白人の女性と男の子がヨットに乗っている写真でした。それを不満に思ったのがマイルス。「何で白人の女なんかをジャケットに載せたんだ」とプロデューサーであるアバキャンに言ったそうです。その結果、セカンドプレス以降、この作品のアートワークはマイルスがアップになった別の写真へと変更されました。


    ※1960年代初めのプレスからジャケット写真はマイルスのアップに変わった

     

    マイルスとエヴァンスの2人は音楽制作に対する相性が良かったそうで、『ポーギー・アンド・ベス(1958年発表)』、『スケッチ・オブ・スペイン(1960年発表)』、『クワイエット・ナイト(1963年発表)』と作品を続々と送り出します。

    エヴァンスが繰り出す音の魔法(アレンジ)は、壮大なオーケストラの演奏の中あってもトランペットの音色を際立たせ、マイルスという主役との間に特別な化学反応を起こしています。

    1957年、マイルスの音楽は新たに映画とも融合。再度フランスへ渡った際、映画監督ルイ・マルの当時のアシスタントでありジャズファンでもあったジャン=ポール・ラプノーが「マルの新作サスペンス映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックを制作してみないか」とマイルスに提案。ラプノーはパリにあるクラブ・サンジェルマンでマルにマイルスを紹介し、同映画の内輪の上映会でマイルスはサントラ制作を決めたそうです。

    録音当日、バルネ・ウィラン(ts)、ルネ・ユルトルジェ(p)、ピエール・ミシュロ(b)、そしてケニー・クラーク(ds)という4人のメンバーを従えてスタジオへ。マイルスは事前に何か準備しているわけでもなく、ラッシュフィルムと呼ばれる音声が入っていない映像を流しながらそれを見てバンドはその場で即興で作曲したそうです。


    Miles Davis / Ascenseur Pour L’Échafaud(Fontana, 1958年発表)

     

    そして、歴史的一枚へ

    1958年2月に録音したアルバム『マイルストーンズ』からバンドに加入したキャノンボール・アダレイ(as)、そしてその後レッド・ガーランドに代わって加入したビル・エヴァンス(p)を迎えたマイルスのクインテットにとって初となる作品が『ジャズ・トラック』という一枚。録音は1958年5月。


    Miles Davis / Jazz Track(Columbia, 1959年発表)

     

    同作品には、Side 1に『死刑台のエレベーター』からの楽曲10曲を、Side 2にはその新クインテットによる演奏で「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」を含むスタンダード3曲を収録。

    素晴らしい演奏を披露したものの、結成して7か月も経つとバンドメンバー各々の心が次第に別の方向を向き始めるように。エヴァンス、キャノンボール、コルトレーンまでもがバンドを離脱したがるように。彼らの本音は、いつまでもマイルスのレパートリーを演奏したいのでなく、自分のバンドで自分で演奏する曲を選びたいということです。

    そんなエヴァンスは12月にマイルスのバンドを辞め、スコット・ラファロ(b)とポール・モチアン(ds)とトリオを結成し成功を収めます。

    1959年3月初旬、どこか不穏な空気が漂うマイルスのバンドは新作のレコーディングのためにスタジオにいました。

    エヴァンスの後釜としてバンドに入ったのはピアニスト、ウィントン・ケリー。しかし彼がそこで演奏したのは全5曲中たった1曲のみ。何が理由だったのでしょうか。

    それはなんと、マイルスが実力を認めるビル・エヴァンスが一時的にバンドへ復帰したから。こうしてジャズのスーパースターがマイルスの元に結集し、吹きこまれたのが名盤として有名な『カインド・オブ・ブルー』です。


    Miles Davis / Kind Of Blue(Columbia, 1959年録音)

     

    モダンジャズの歴史において、今もそしてこれからも、永遠のマスターピースとして語り継がれる大傑作。

    フロントはマイルス(tp)、キャノンボール・アダレイ(as)、ジョン・コルトレーン(ts)という3人。ピアノは5曲中4曲をビル・エヴァンスが、「フレディ・フリーローダー」のみウィントン・ケリーが演奏する2人体制。それにポール・チェンバース(b)とジミー・コブ(ds)が加わる、何とも贅沢極まりない名手揃いの一枚。

    また、マイルスやコルトレーンが極めようと試み、後のジャズ界に大きな影響を与えたモード・ジャズを象徴する作品としても有名です。

    「日本の視覚芸術(ビジュアルアート)では、画家本人が予期しない結果を強いられることがある。羊皮紙の上に筆で墨汁を垂らして描くのだが、筆さばきを少しでも間違えたり、描くのを途中で止めると線が乱れたり紙が破れてしまう。そうなると消すことも修正も出来ない。(筆を走らせる間に)じっくりと考えることも出来ず、手とアイデアとの間で直接的な方法で表現する特別な鍛練が画家には求められるのだ」(日本語文は筆者訳)

     

    これは『カインド・オブ・ブルー』のジャケット裏、ビル・エヴァンスによるライナーノーツの一節。彼はジャズにおける即興演奏(アドリブ)の難しさと偶然性を日本の墨画に例えて解説しています。

    同作を代表する1曲、「ソー・ホワット」は”それがどうしたっていうんだ”という意味で、マイルスの口癖が曲名の由来だそう。始めから終わりまで、どの楽曲もまるで絹糸を張り巡らしたトンネルの中を7人の奏者が糸を一本すら切り裂くことなく通り抜けてゆくような、そんな張りつめた緊張感と繊細さをそれぞれのアドリブから感じます。

    名盤という言葉はまさしくこのアルバムのためにある、そう思わせる素晴らしい作品です。

    同じ年、コルトレーンは彼の代表作ともいえる『ジャイアント・ステップス』を、そしてエヴァンスは『ポートレイト・イン・ジャズ』を録音。他にもデイヴ・ブルーベックは『タイム・アウト』、オーネット・コールマンは『ジャズ来るべきもの(原題:The Shape of Jazz to Come)』をレコーディング。

    1959年は後に名作と呼ばれる良質な作品が多く吹き込まれた、ジャズ史において非常に重要な年になったのです。

     

    作品紹介


    Miles Davis / Someday My Prince Will Come(Columbia, 1961年発表)

    テナーサックス界のミドル級チャンピオンと評されたハンク・モブレー(ts)が新たに加入しレコーディングされた作品がこの『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』。バンドを離れていたコルトレーンも一時的に復帰し、同作では2曲に参加しました。

    冷たさと緊張感を感じさせる前作『カインド・オブ・ブルー』は全曲オリジナルだったのに対し、本作はマイルス作のオリジナル3曲とスタンダード3曲という構成。

    タイトル曲「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:いつか王子様が)」はご存知ディズニー映画「白雪姫」からの人気曲。

    曲中、最初のソロはマイルスで、感情を豊かに表現した人間味溢れるトランペットを奏でます。次はモブレーのソロ。彼独特の柔らかみのあるトゲのないテナーサックスのサウンドが見事なまでに曲の雰囲気にマッチしています。ケリーのピアノを挟み、次はコルトレーンのソロ。モブレーのそれとは全く違う、力強いテナーの音は一聴してコルトレーンだとすぐ分かります。

    その他にも「テオ」はスリリングな展開の曲、アルバム最後に収録された名スタンダード「アイ・ソート・アバウト・ユー」は歌詞通りのロマンチックな演奏で美しい世界観を示します。

    マイルスのミュートトランペットが美しく響く最高のアルバムです。

     


    Miles Davis / In Person, Friday Night At The Blackhawk, San Francisco, Vol.1(Columbia, 1961年発表)

    『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』を吹き込んだメンバーからコルトレーンが抜けたクインテットでのライブ録音作品。場所はサンフランシスコのジャズクラブ、ブラックホーク。金曜と土曜と2日間に渡って録音されたパフォーマンスはVol.1、Vol.2とそれぞれに分かれて収録されました。(両方を収めた2枚組仕様のレコードもある)

    収録曲は名曲「ソー・ホワット」の他、「ウォーキン」等、コロムビアへ移籍する前のプレスティッジへの作品で演奏したレパートリーも。演奏が熱を放つ、痺れるアルバムです。

     


    Miles Davis / Bitches Brew(Columbia, 1970年発表)

    長いジャズの歴史において、もはや事件ともいえるマイルスの1970年作。それまでのアコースティックなサウンドだけに縛られることなく、当時大きな人気を集めていたロックやファンクの要素を果敢に取り入れ、エレクトリックギターやエレクトリックピアノといった楽器を採用しジャズの可能性を広げました。そのため、この時代のマイルスの作品は”エレクトリック・マイルス”とも呼ばれます。

    『ビッチェズ・ブリュー』はジャズという枠を越え、まさに音楽の壁を打ち破った作品。見開きジャケットに描かれたイラストは異彩を放ち、独特の存在感を示しています。

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    マイルス・デイヴィスは生涯を通して進化し続けました。

    時代とともにバンドメンバーも変わり音楽性が変化することも。しかし、その音楽の中心にいつもいたのは、マイルスであることには何ら変わりありません。

    ジャズ史における最重要アーティストのひとりである彼が私たちジャズファンに残したもの。それは名演であり、彼が音楽へ捧げた人生であり、そして何よりもジャズへの情熱なのです。

     

    文:福田俊一(Face Records)

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